第23回 映画部記録(2022/12/29)
『シスター 夏のわかれ道』(2021年・中国
監督:イン・ルオシン
脚本:ヨウ・シャオイン
キャスト:チャン・ツィフォン(『この夏の先には』『チィファの手紙』)
シャオ・ヤン
ジュー・ユエンユエン
ダレン・キム
トゥアン・ポー
ウェンリャン・ジンカン
公式サイト:
https://movies.shochiku.co.jp/sister/
予告:
参加者
T.H、K.Y、F.M、加藤
T.H
中国でこれを放映できた理由はラストでわかる?
役者の演技:★★★★★
一人っ子政策の闇度:★★★★★
プロパガンダ度:?
知られざる本土の暮らしは予想通り
中国映画というと、自分にはリーさんとジャッキーさんとサモハンさんのイメージが強くて、破天荒で落ち着きのない人ばかり、田舎の貧しさが半端ない、という思い込みからスタートした「シスター」。
ストーリーとしては、家を離れた両親が事故で亡くなり、残された幼稚園児の弟の面倒を見なければならなくなった、医者志望の女の子と弟の生きる道、という感じ。
脚本的に出てくる人たちが何らかのつながりがあって、見ていて飽きない。事故時に運転していた人も身近、面倒を見てくれた叔父や叔母、いとこなども関わってきて、最後まで入れ替わりながらうまくつながっているなという印象だ。
冒頭の両親の葬式シーンで親類が麻雀をやってるあたりから、結構赤裸々に中国本土の風俗を描いてるんだろうなと思っていたけど、住宅事情、結婚、恋愛、家庭の格差、そして一人っ子政策の中で生まれた女子の扱いなどはなかなかきついものがある。
調べてみたら、監督も脚本も女性だったらしい。男が徹底的にダメに描かれているところにはなんの異論もない。ヒモみたいな叔父、実はセクハラしてた叔父、金のことばかり言う叔母(でも実は優しい)、飲酒運転をもみ消した運転手などなど、全員ダメ男ばっかで呆れるが、これが共感を呼ぶということは、私たちのイメージどおりの家父長制の中国の姿はあまり変わってはいないんだろう(まあ、仕方ないかもしれないけど)。
それらの前提にあるのが一人っ子政策の功罪。主人公は親の都合で長女なのにないものにされそうになり、叔父は次男ということで当時から何の自由も教育も与えられずクズに育った。その点で、このふたりの共感関係はなんとなく伝わる(泥沼恋愛にならなくてよかったとつくづく思う)。
そして、ひとりで生きていくために努力する主人公に、自分がないがしろにされた理由でもある跡取り息子を押しつけられるという不条理極まりない展開もやはり、政策に対する強いメッセージだとは思う。
社会批判か、プロパガンダか、あるいはその両方か
ただし、最終的に金持ちが育てるのが幸せという養子の考え方や、いろいろあって主人公が自分の人生と弟の人生(自分の人生でもあるが)、どっちを選ぶのか、といったところには、少し引っ掛かりがあったことも事実。
最後の最後で、プー太郎だった叔父がなんかいいやつに見えるところとか、血のつながりを強烈に感じさせるところとか、やはり女性は社会進出することができない、という裏のメッセージと取れなくもない。
素直に登場人物の思いと決断を尊重すればそのまま感動の物語として終われるのだが、この姉弟を待ち受ける困難はむしろここから。
そして、その行く末として、最初から主人公の面倒を見てきて、弟(主人公の父)の進学のために自らの学業を諦めた叔母の姿と重なってしまうと、なんかうーんと思ってしまう。
おそらく監督は、その辺も含めて狭い範囲の中で自分の幸せを模索して、それでも抜け出せないという中国社会の闇の部分を描いているが、それでも幸せに生きよう、みたいに持っていきたかったのか、最大限の皮肉としてハッピーエンド風に見せたのかはなかなか読み取りにくい。
個人の主観としては、親世代と娘世代の2代にわたって、未だ中国は自由がないということを見せたかったのだろうと思う。こういう社会は世代が変わらないと大きくは変わらない。だから、反面教師として次の世代=いまの若者に対して、表も裏も含めたメッセージを伝えたかったのかな、と思う。
ここまでいろいろ考えさせてくれるのも、中国の特異な政策あってこそであり、資本主義国家にはここまでの制約はない。だからこそ、物語の根底にある圧倒的な不幸が題材にしやすい面もあるかもしれない。
それはそれとして、脚本も役者も本当に自然でうまくて、もっともっといろいろな映画を見てみたいと思わせるだけの魅力はあった。恋愛、ホラー、サスペンスなどなど、いろいろ興味が惹かれるきっかけになる1本だった。
K.Y
オチが凄い度:★☆☆☆☆
考えさせられる度:★★★★☆
映画の中の価値ある過程
映画のラストシーンというのは、凄く意味あるものだと捉えられることが多い。ネタバレという言葉が横行するように、オチや結末というのが映画の核心。テーマであるかのように。だが「シスター」を見ているとオチなんて、何の意味もないのだと気づく。
両親の事故をきっかけに幼い弟の面倒を見ることになった姉。最初は弟を養子に出そうとしていたが、ラストでは弟と一緒に生活を共にすることを選ぶことになる。
このオチを聞いてもなんの面白味もない、ありふれたストーリーだ。そして映画を見た人はストレートに弟と暮らす道を選んだ姉に共感するのだろうか?
執拗に描かれる「自分の人生を生きろ」と言うメッセージ。果たして弟と一緒に暮らすことに血縁の面倒を見る以上の何が残っているのだろうか。結婚まで約束していたような彼氏とも別れて、あんなに一生懸命勉強していた医師への道はどうなったのか?叔母が涙を流してまで、「自分の人生を生きろ」と言ったのは何のためのシーンだったのだろうか……。
映画は2時間、執拗に姉が面倒を見ざるを得ない状況に追い込んでいく。叔母もダメ、叔父もダメ、新しい家族も上手く行かなそう…その過程にこそ、この映画で伝えたいテーマがある。
映画を2時間見るとはオチを知ることではなくて、他人の人生を体験する時間なのだ。他人の人生を体験した上で、あの結末の先に一体何があるのか、この映画を体験したものだけが考えられる未来がある。
加藤
家父長制はクソ:★★★★★
どうにもならない絶望度:★★★★★
もう一度観たい度:★★☆☆☆
当然のように与えられた役を捨てたい
「お姉ちゃんだから」
そのたった一言で、これまでまともに顔を合わせたことがない弟を引き取れと言われる絶望。幼い弟を残して死んでいった両親たち、同情していると言いながらも完全に他人事な親戚たち。
「育ててやったら、将来この子が恩返しをしてくれるぞ」
酔っぱらっているであろうオッサンたちが口にする無責任な言葉に、怒りを覚えた。
「女だから、学歴は必要以上にいらない」
「女だから、家を継がれても……」
たくさんの“女だから”にがんじがらめになりながらも、ようやく自分のために一歩踏み出そうとしたところに起きた両親の事故死。幼い弟を引き取るのが筋だろうが、そんなことをしたら自分の夢は叶えられない。しかし、弟との時間を重ねるほどに、幼い弟への愛しさは募っていくわけで……。
親戚に頼もうと決めて叔父に預けてみてもダメ、自分の家庭だけでいっぱいいっぱいの叔母には結局頼めない。ようやく引き取ってくれると申し出てくれた富豪は見つけたものの、本当に弟を幸せにしてくれるのか確信が持てない。
結局“私が私でいるため”には、「弟との生活」を選択するしかないような気がする。こんなの、全く希望のあるエンディングだと思えない。女にかけられた“呪い”だと思う。
「一人っ子政策」と家父長制によって生じたゆがみや、女性の生きづらさ。女だからという理由で存在を消されそうになっても、憎みきれない家族。自分だけを頼りにしている弟の存在。主人公が抱えている問題は、あまりにも重すぎる。
家族だから、愛してしまうからという綺麗事だけでは片づけられない「女/男だから」「女/男なのに」という呪いのことを、私たちはもっと真剣に考えるべきだと思う。
それがさまざまな制約があっただろうなかで、この映画を作り上げた制作陣への最大のリスペクトになるのではないだろうか。
※画像はお借りしています。